メルマガ20250115
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  ☆よりハッピーになる微笑み空間をつくりましょう~20250115号☆

             ☆ わびと数寄 ☆

      ☆  大宇宙と小宇宙・自然と共生する心  ☆

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 寒中お見舞い申し上げます。

 大変、ご無沙汰しております。お元気ですか。

気長に、笑読していただきまして、有難うございます。<(_ _)>

 

 昨年の元旦の夕刻に起きた能登半島地震後、

明日にも八丈島辺りから南神奈川方向に、シーソーのように地震が発生するのではと、

穏やかな日常生活の中で、旧耐震基準や、今年度からは新耐震基準で建てられた住宅の、

例年より数倍増えた耐震改修工事関連の仕事を、恐怖と戦うかのように、

9キロメートルに及ぶような地形の変形、うねる地盤の痕跡を見れば、

微力ではと感じつつも命だけはと、進めて参りました。

 

 そうして、12月には、明日は我が身とも思い、自身を労うかのように、

表千家北山会館の開館三十周年記念特別展「わびと数寄―受け継がれる利休の心―」を観賞するために、

京都まで参りました。

利休が大成した侘び茶が様々な広がりをみせながら近代そして現代まで受け継がれてきた

茶の湯のありようを総覧できる展示とのことで、北村美術館館長木下收先生の「松永耳庵を中心に―近代数寄者」と、

不審庵常任理事の左海大宗匠の「わびと数寄―受け継がれる利休の心―」の

ギャラリー・トークをオンラインで聴講できて引き寄せられたのが、私を飛ばした決定打でもありました。

  
          
(建築以外の写真の出典は、左写真の不審庵文庫編集、表千家北山会館発行の上の本から。)



東大寺で用いられていた「黒漆鼓胴」が原三渓により花入れに、

北村謹次郎氏に守られ愛された藤原時代の、練行で用いられていた盆(練行衆盆)に火舎香合、

唐物、そして写真の利休手作りの「黒樂茶碗禿かむろ」や、

金森宗和好みの野々村仁清作の「色絵鱗波紋茶碗」のような国焼きなどが、

幾多の災害や戦災の中も(幾重にも濡らした和紙に包まれ地中で守られるなど)、

潜り抜けて、大切に使われてきた道具の数々から、

これまで惹かれてきた数寄屋、草庵茶室など建物に浸み込んでいるような心、

美を感じ取りたいと願ってのことでした。








           

 

 「わび」とは、正直に、正しく、慎ましく、奢らない様で、

「数寄」とは、心を寄せることとのことで、両方をまとめて大成したのが千利休であると、

これでデジタル仕様の愚息の質問へも一言で説明できましたが・・・。

 

 「わび」までには、聖武天皇が仏教の心で治国したことからも仏教美術と漢字が重んじられて、

唐物、道具の茶であったところ、宋の頃、室町時代、足利義政の頃の村田珠光の「心の文」から確かとされるのは、

我や欲を抑えて、和漢の境を紛らかし、(栄西禅師が禅と茶の実を持ち帰り、師から受けた明惠が栂尾に植えた茶、

抹茶、茶の文化により禅がより身近になって浸透して守られ、

本舗では文化革命で荒れたり焼失した禅寺が、日本に存在すると

中国人も涙するという、)茶禅一味と「わび」に加えられたのが、

武野紹鴎からの柔らかな「和歌」の心と、左海宗匠の穏やかで確かなトークから、

大学の卒論で、草庵茶室や数寄屋が日本住宅文化に与えた影響の研究を、利休を中心に始めて、

藤井浩二の聴竹居や堀口捨巳の数々の著作などに到って、

「大宇宙と内なる宇宙」と結んだことを思い出しました。

 そうして、和漢の境を紛らかす、温故知新で新旧を紛らかす、

文明開化を乗り越えて和魂洋才と東西を紛らかし、

自然を畏れ愛して内外紛らかし、内外人を紛らかすと、

神仏混淆でも長年上手く秩序を築き守られてきた歴史が続くと思うと安らかな気持ちになり、

その流れが世界に広がればと願います。

 

 数十年前のその頃、利休の草庵茶室、妙喜庵「待庵」や、

(傾倒している綺麗さびの)小堀遠州の桂離宮や、大徳寺
弧篷庵「忘筌」や、

原三渓による聴秋閣など見学、調査、研究した記憶を手繰りすると、

それらの中のひとつは、

文化庁へ申し込んで指定日に見た東京国立博物館庭園内に保存されている「春草盧」でした。

その数十年後、東日本大震災後になった
2012UIA東京大会で、

今は亡き、(大学で家具デザインを教えて頂いた)松本哲夫先生に推薦されて出席していた準備委員会の末端として、

海外建築家をお招きする東博の茶会の打合せで、

リーダー格の(後々ご迷惑にならないよう)
M氏が着々と確りと固めており、

当日には、茶道の師である実母も大変驚き喜んだのは、

春草盧での濃茶を主客として味わい、庭園内には人が疎らで待つことなく、

襖絵は複製でしたが応挙館での薄茶席にも入れて、旧友たちと歓談できたことでした。

「どうして、実際、席が持てたのかしら?」の疑問と共に、とても良い思い出となったのでした。

https://tatefro.com/entry-53.html

 

 その答えを、木下氏のギャラリー・トークで得られました!

そして、かなり鈍くて、気づきが遅い自分を恥じたのでした。

「松永耳庵を中心として―近代数寄者」の、

その草庵茶室や茶道具、美術品など東博にかなりの寄付をした松永耳庵のご子孫の故と、合点したのでした。

 更に、そのトークから、埼玉県柳瀬荘の黄林閣や、久木庵についての話で、

昭和事変の頃、国と大喧嘩したという電力の松永安左エ門氏(耳庵)が、

寒いこともありそこを手放し小田原へ転居したという話の流れの中、

「渡り廊下が大変長い」というところで、思い出したのでした。

 

 入間市の盈進学園、東野高等学校の二期工事であった

大講堂の内装と、外構工事と、大学棟(との呼び名)が竣工した頃(
19861987年)に、

恩師、亡きクリストファー・アレグザンダー教授(環境構造センター主宰)を主賓とした宴のことです。

学園近くの事務所から車で小一時間のところで、仕事後なのですっかり暗くなり、

月影も樹木で届かないところ、手蜀の光に導かれ案内されて、

かなり長くくねった廊下と階段を、半分以上は壁の無い渡り廊下で、

黄林閣から斜月亭に入る前までは暗く寒かったことを思い出しました。

既にベジタリアンでしたので殆ど口に出来ずに、中華であったか和食であったかも覚えておらず、

ただ室内は落ち着いて和やかで、クリスが褒めると、

皆で扁額を眺めて「事務室長のお身内が関係者で席を設けられた」と当時の理事長が話していたのを思い出し、

この三が日に
40年ぶりに着たコートから事務室長の名刺が出てきたのでした。それで思い出しました。

なんとも不思議です。
所沢市ホームページ 黄林閣


 その後、カリフォルニア州、バークレーの環境構造センターで仕事し始めた頃(1991年前後)に、

担当している住宅の工事についての悩みを、先輩の同僚から聞かされました。

(柳瀬荘では暗らかったのでより長く感じたのかもしれず、

ケヤキや銀杏の黄葉で夕陽に輝くような美しい眺めをクリスは見たと想像しましたが、)

渡り廊下が大変長く、移動や掃除など日常生活が大変そうだと、施主様にこぼされるとのことでしたが、

あの渡り廊下の長さではなく、等高線、地形に沿ったステップもある直線的なものでした。

この工事中に見学した敷地では、樹木が疎らでしたが、同様の別件では、

カリフォルニア州でも樹木が豊かなところで、

あの「Popy Lane ひなげし通りの住宅」のように、他にも斜面地への向き合い方、扱いが、

斜面に馴染むように(ゲーリー教授の指導、監督の下、

地盤調査後に必要ならば支持層まで達するように杭打ちをして)、

既存の樹木も大切に、建物、門、庭と、すべてが配置されて、そこからの眺望も含めて、

庭掃除も含めて丸ごと暮らしの青空(雨天でも)空間と感じられたのでした。

    
 
 




「「C・アレグザンダー、アルテミス・ア二ノウ、ゲーリー・ブラックによるべリシア・ハウス1986年」
        
     

       

  「C・アレグザンダー、G・ブラック、他環境構造センターによるアンドレ&アンナ・サラ・ハウス 1983年」

(出典:The Nature of Order Book Three)

 

此処で見て感じ考えたのは、生活と、空間と、建物と、地盤、地形、自然との生きいきとした関係です。

ジョギングが流行って、皆がスニーカーを履き始めたころのことです。

そして、東野高等学校の在り方、地形に沿って建物を配置して、傘をさして教室を移動したり、

トイレに行ったりと。そして、何故、
1987年の夏にクリスが

「(かなりの間、眺めた後で)これだ!」と言った

(当方が
1987年にミニF1で撮影した)食堂棟の写真が何故良かったのか、通じるものがあると、

事務室長も感じて「柳瀬荘」に宴の席を設けたのか、

思うところ、心は通じて同じであると、見つかった名刺から、忘れそうになっていたところ、

なるほどと汲み取れたのでした。








 (出典:The Nature of Order Book Three)

 

幕末近くの大名茶人の松平不昧公や井伊直弼からの武家の茶だけであったならば、

明治維新で、茶道は途絶えてしまったかもしれないところ、

彼らの近世から近代への橋渡しともなり、

三井物産創立者で、

(樹林の庭とS建設と共に補強させて頂いた旧耐震の住まいを大切にされている中村橋の施主様が入っておられる)東の大師会や、 

西の光悦会の益田鈍翁や、
(写真上下:令和6年12月14日京都下鴨旧三井家別邸)


原三渓や、松永耳庵ら近代数寄者により守られて、

町人の、千家の茶の湯が、三井家と共に千家11代碌々斎によって
1887年(明治20年)には

京都御所において明治天皇への献茶が執り行われて、

公にも継続し、博物館や美術館が出来る前に、社会主義が浸透する前に、戦費のための相続税創設前に、

日本の宝が海外に流出してしまったり、塵となるのを失せぎ、守り貫き、

その心の拠り所は、「利休に還れ」と千利休であったのです。


   
       

利休の楽茶碗、「禿:かむろ」が利休遠忌50年に一度、不審庵で用いられ続けているように、

即中斎手造りの黒茶碗「雪間草」も使い続けられ生き続けるであろうことに、



苦難の時代を乗り越えて、(全てを)正しく伝えられるようにと、それに注がれた心血に深い感謝から手を合わせるのです。


      

 

木下先生からの、千家や、かれら近代数寄者の中心として耳庵の言葉をお伝えすると

「・・・宗教的な茶道観と庶民生活の体験の上に築かれた茶道芸術、

枝葉末節にとらわれない茶道本来の面目に還れ

・・・利休の茶は実にそうした茶であり、その故にこそ豪華な桃山文化の中にあって、

このささやかで簡素な茶(侘び茶)がその力に於いて少しもそれらに負けず、

敢然としてその存在を主張したのである。

・・・厳粛な人生の正しい生き方は侘びに生きることである。・・・

簡素に徹底することこそ生活を真に豊かにし真に美化するものである。

しかも、そうした精神を生命とする芸術こそ利休本来の侘茶である。・・・」。

そして、(寂びの心、)「不足の美」、「知足の美」として

「お茶について、先ずわびの精神―不完全の中にも、

不足の中にも美を求め正しい事を求め、全きを愛する心―それを学びたい。

・・・茶の本当のわびの心という心は、不完全な中に満足することなんだ。

人は美や善を求める。求めても尚求め尽くす事は出来ないから、

その求めたものの中に満足することが大切だ。

私は先ず乏しきに耐え、乏しきを楽しむ日常茶飯事の茶道化を望んでやまない」。

「また、耳庵には、

(クリスと同じように)理念ではなく実践こそが茶(
Timeless Way of Building)

生活であるとの信念があって、私が今回の中心人物に据えたかった理由がそこにあった。」

「(耳庵の言葉として)茶道は概念ではなく生活そのものであって、理念でなく実践である。

実践する処に正しい道理も生まれ、生活するところに美しい興趣が生まれてくる。

その行きついた処よりも道程(道行の一つ一つ)が面白いのであり、

自分で作っていく芸術である」と。

(茶道雑誌202412月号5759ページより)  

 

クリストファー・アレグザンダーの著作、クリスからの教えも同じでした。

そこには時を超えた質があり、Oneness、我欲を超えた自己Selfを見出して、

主客一体、人と物が寄り添い、物と物が寄り添い、心を通わせる。

自然との一体感、これが「汎」につながる大宇宙と自己の内なる宇宙との同一性、

溶け込むような一体感、

それが感じられる空間こそが、微笑み空間と目指すところです。


そして、ニュースで他界されたと知った(ご冥福をお祈りいたします)、

クリスと同時代の原広司氏の、隈研吾氏初め多くの教え子たちへの晩年の言葉に

「様々な主体的な建築が生まれる中で、

そこを使う、暮らす、住む人たちとの共通の言語を大切にして欲しい」と。

パターン・ランゲージの本からの実例を超えて、浸透し続けるでしょう。

茶碗も、建築も使われて生き続けるのですから。

 

やはり12月に、建築家会館での、

建築空間、新幹線のデザイン、インテリア、インダストリアルデザインと

広範囲に活躍され残された作品の現物から原寸図まで展示をされた、

松本哲夫展のパンフレット「
TETSUO MATSUMOTO 剣持 勇の意思を継承するインテリアアーキテクト」の中で、

剣持勇の言葉として残されたのは、(ニューヨークの
MOAに展示されている藤丸椅子のデザイン思考中)

「具体的なデザイン上のテーマは、先ずユニークである事そして、素直であり、飽きないものである事、

謙虚な豊かさをもち、実用的には汚損に耐えるもの、寿命の長いもの、修理の効くもの、

内外人を問わず高い品性を感じさせるもの・・・

であると云えるでしょう。」と感じ入ったのでした

 

求めるところ、心は同じです。

そうして、「わび」を軸として、

この度のように魅せられ惹かれる「数寄」から

「さび」へと繰り返しグルグルと回っているようですが、

今年も、どうぞ、宜しくお願い申し上げます。
<(_ _)>

 

さて、今年は阪神大震災から30年目となります。

当方の小事務所は、メリー・ローズ博物館の再開を待っているところ、

阪神大震災が起きて、圧壊など被害の映像を見て、

私が
1989年の秋にサンタクルーズ沖震源地のサンフランシスコ地震をバークレーで経験したことから、

修士課程での、ゲーリー・ブラック教授による、建築構造授業を初め、

2DSAP80や3DSAP90を用いての木構造など構造解析、設計を学び、

今では
MSDOSの扱いはすっかり忘れ、25cmのディスクは見れない状態ですが、

メイベリックの頃、日本では武田五一の求道館の頃の
100年近く前の木造建築が山の斜面に結構建っており、

その主に、基礎層の補強をどうするのか、「あなたも見るべきよ」と、家主に声をかけられたのを思い出して、

その年、平成
7年、1995年の4月には親友の勧めもあり、小事務所を開設したのでした。

今年は
30年目です。光陰矢箭。

 

 次回は、耐震改修について、主に補強工事に到らなかった件等を見返したいと思います。

 

では、次回をお楽しみに~~