よりハッピーになる微笑み空間をつくりましょう♪20220717

 「それでも少しづつ前に進まなければ〜」

 暑中お見舞い申し上げます。

 豊作が期待できる雨続きの後、海の日らしい夏空となって参りました。
 お元気ですか。
 大変、ご無沙汰しております。

 まずは、私の恩師、クリストファー・アレグザンダー教授の訃報についてお伝えします。
既にご存じの方も少なくないと思いますが、今年、2022年3月17日に他界致しました。
享年85歳でございました。
その一つが、下記のガーディアン紙の3月27日号、
長年の同僚であり親友のようであったハワード・デービス氏による
記事です。

Christopher Alexander obituary _ Architecture _ The Guardian.pdf へのリンク

 環境構造センター(Center for Environmental Structure )の主宰であるのみならず、
私が大学卒業後、建築の仕事に就いて42年間の初めの4年間を過ぎて、長らく、ボスであり、
導師であり、仕事を続けていく上での守護神、父のような存在でした。

 昨秋より未明の電話が気になりCES本部に問い合わせたり、
盈進学園の方向に引っ張られるような力を感じつつ、
今春には、「(前号までの当メルマガ;板橋カーサTについて)今、読み終わったところだ、
やったじゃないか、Wonderful! でも、長らく待ったよ、長過ぎた、だから死んだんだ」と、
虫の音のような、確かにクリスの声で、しかし最後の方は微かでしたが感じても、信じられなかったのです。
信じたくなかったのです。

 それでも5月には、長年のクライアント側からの丁寧な挨拶と訃報からの悲しみを共有して、
長年の仲間と共に夫人に香典を送りました。

 今でも、指導されたこと、学んだことや、
やり残したことを思い出し頭の中で整理している状態が続いています。

 クリスが古代カーペットの美、幾何学的性質を学び、秩序の本質に到ったように、
常に身近で観て、学べる何かを持ちなさいと。
その頃、クリスは千代紙が表紙の綺麗な草稿冊子をスケッチブック、
ノートとして持っていて、「KIMONOとかね」と。
当方にとっては、6歳からの表千家茶道、
茶会などで馴染んだ世界だと思ってましたが、それに加えて、能衣装や着物の図柄のことかと、
美への感性を磨く何かを持つ意味を感じる得ることができました。
そして、続けて、何度も繰り返し、「自身を洗練させるよう願っている」と言われ、
バークレーの客員研究員を短期で終えて、
博士課程も断念した後、日常業務や活動の中で、学び続け、
その意味を考えてつつ(おばさんにならないようにと願いつつも)、
最も、難しいと感じつつ、茶道を続けています。
 そして、業務が一段落した時は、常に執筆し続けるようにと、もっと書くようにと。
皆様もご存じの通り、殆ど毎回「ご無沙汰しております」と始まるほど、さぼっていたのです。

 やり残したことは、
 一つは、前号までの「板橋の空の下、石神井川が流れる」でご紹介した3階建木造共同住宅で、
1990年版ではなく、2021年版として、実現の流れに漕ぎ着けたと考えてます。
これで、つながって、あちらこちらで広がればと期待しつつ、
バークレーで担当した愛知博覧会跡地計画の低層集合住宅案「白鳥計画」や、
その後、元夫、筒井氏の支えもあり、CES本部で担当した「千種台公営集合住宅建替計画低層案:住民参加型」
から学んだことや、田端の高層集合住宅計画の基本設計から学んだことが、実現は出来なかったが、
間違いなく沁み込んでおり、反映されていると、カーブした道を歩いてアクセスするたびに感じています。

 次に「メリー・ローズ博物館」についてです。1990年から1992年まで担当し、一次基本計画・設計の後の、
高さ調整などのフィードバックを反映させた二次計画・基本設計提出後、
理事会には受け入れられてもメインの出資者が離れ、
資金調達の基金の為、地元新聞でアニーによるパースを全面に載せて、
十分に集まるのに20年くらい待つとのことでした。
それから20年後に、当メルマガでもその時のことについて書きましたが、
2012年にポーツマスに参りました。
 それが、2017年に全く違う、歴史への尊重が感じられない、ダース・ベイダーが出て来そうな
建物が建ち、クリスや構造家のゲーリー・ブラック教授を初め、当方も含めて、スタッフ一同の
無念を、理事長が変わることの重大さを、痛感したのでした。

 最後に入間市の盈進学園東野高等学校についてです。

 クリストファー・アレグザンダーとの出会いは、日本女子大住居学科1年生の時に、
夏休みの推薦書籍として、「オレゴン大学の実験」、
それから「コミュニティとプライバシー」を読んだのが初めでした。
その後、竹中工務店医療福祉本部に就いて、医療・福祉施設の情報や調査、
報告書作成や計画図について学ばせてもらいつつも、直接的にデザインまで
担当できる設計部を羨ましく思い、同期の女子達と、代官山の「建築模型展」で、
CES、C.アレグザンダーの高層集合住宅計画模型「札幌アパートメント」を見た時の印象です。
 高層でも格子窓で、日常的な動線に沿って、あるいは途中に屋上庭園が、
随所にあり、知り合いになる場所、
コミュニティとプライバシーが可視化されていると感じ入り、
元々、建築史の研究室出身で、日本建築は茶室関連に偏っていましたが、
ルネサンス前後の建築には傾倒したので、全体の様子が、民主的な、
それでもボリュームや形が石積みではない鉄骨とプレキャスト・パネルの、
和を意識した当時完成ののアメリカ大使館寮のようで、
それでいてゴシックのようだと、不思議に感じたのでした。

 1984年の秋に、同窓会のネットワークから盈進学園建設で、
最後の設計を手伝う助手を急募していると友人から伝えられて、
当時、地域サーベイや既存の状態を尊重して良い方向に育てる丁寧な設計を、
茂木研究室からの助教授であられた片山和俊先生のアトリエで学ばせてもらい、
矩計図を描く姿を横目で見ながら、家具図や、
主構造部ではないところで木造とスチールとの融合した詳細図を学んでたところで、
入間市にある学校建設プロジェクトに入るために、辞めることを許してもらいました。
竹中も当時は女子は皆、準社員で、生涯打ち込める仕事をと願いつつ、
通勤や大組織には合わないと、
設計事務所も3社で学び、お給料を頂き、お世話になり、納得がゆくまでと、
女子故に出来たかもしれませんが、
この間に学んだことは、その後、アレグザンダー教授に師事して、大変役立ったのでした。

 そうして、1984年の11月に入間市現場と現地事務所を初めて訪れて、
驚き、この道だと感じたのでした。大講堂の建て方が完了した段階でした。
それから、12月に日本環境構造センターに入り、
元夫、当時婚約者であった筒井氏から薦められ借りて、
「都市はツリーではない」や「形の合成についてのノート」や
「A Pattern Language」を読みながら、
現場実験を手伝い、大講堂の20分の1の模型を製作したのでした。
上記の事務所で学んだ、白と裏は茶のカードボードを使ったのが成功の秘訣でした。

 1985年1月半ばに、池袋で、
クリスとイングリッド(キング夫人、副主宰)を日本事務所所長のハイヨと迎え、
入間市二本木のバス停まで、案内しました。
小さな電車の中で、腰が痛いからとずっと立っていて、
バス停前の小さな駄菓子屋に、ニコニコしながら入っていき、
クリスは巨体なので、私は外でしたが、
「お久しぶり、元気ですか。Wonderful!」と、マーブルチョコレートを買って、
「これが大好きなんだ」と、緊張が少し解けました。
 日本事務所は、大型台風を迎える前のように準備し、
緊張しつつも大変興味深く高揚感がありました。

 大講堂の模型は、木質を感じさせる色や、トレーシングペーパーと通した
光が、実際の現場の様だと気に入られて、色実験のスタディが進みました。
グアッシュで色合わせ、調合を確かめながら、原寸模型用のポスターカラーや模造紙を
手分けして何度か、所沢の世界堂まで買出しに行き準備して、現場実験が出来ました。

 柱や梁は決まり、窓からの陽光とホールをつなぐ、2階ギャラリーの天井の色を決める途中段階で、
次の日に決めることとなりました。
翌日は、大雪で、通常通りではない交通状況が全てを遅延させる恐れをもたらし、
それでも帰国のスケジュールは延ばせないので、開校スケジュールから竣工期日があり、
元請け施工者にとっても戦場のようでしたから、期日通りに進めました。
最後に、舞台奥の大梁を隠す役目もある、
垂れ幕のような壁にダイヤ型の桃色の原寸模型を用意し、
クリスが並べ、調整し、黒い点を入れて、イングリットやハイヨも確かめて「良し」となったのでした。

 暗くなり帰るため、玄関土間に下りると、クリスが手を握り、大きく握手し、
「楽しかったか、楽しかっただろう、アメリカに来い、バークレーでいっしょにやろう」と、
ドシンドシンと飛び跳ねて、現地事務所の民家が揺れて、驚き笑い、
「はい、いつか」と応じたのでした。直ぐには行かれなかったのですが。

 1985年4月に関係者の尽力により、無事に開校となりました。
式典の後で、クリスと共にスタッフ皆で真剣な反省会がありました。
といってもクリスが話すだけでしたが。
「60%の出来だ、未熟なので、
大き過ぎたかもしれないが、マンション(札幌アパートメントくらい?)くらいが、
仕事でできると丁度よい」とのことでした。

 1986年には一級建築士を得て自立を目指しつつ、
筒井氏と多目的ホールで神式の結婚式をし、白い大講堂で披露宴をしました。
今思い出すと、赤面です。
 当計画建設をまとめたCESの書籍、「Battle」の当時の原稿に、
大講堂の前での集合写真や多目的ホールでの挙式の写真が含まれてました。
2015年出版の、実際の本にはそれらは載らず、旭硝子株式会社によるサッシに載っていると、
昨秋、当事務所に来訪された博士課程のF氏に教えられて、思い出したのでした。
(私が修士課程終了証を受けた後、
1990年12月帰国前に徹夜して製作した白鳥計画の模型を、
クリス経由で日本側代表であった人に貸して、瓦会社の宣伝に幕張メッセで使われて、
返却の梱包開けて、半分壊れていたのを直し、奥多摩の厳寒の夜に、千種台用に連結させる
部分を加えて、屋内の家具を製作したのを、F氏に「誰がつくったのか」と聞かれて、
悲しい思い出と共に、その部分はすっかり忘れていたのでした。
記憶の下層から上がってきて、その後、思い出したのですが。)

 大講堂の内装工事を実現へと進めつつ、
1987年には江本ビルディングの基本計画、設計が始まり、
クリスから「バークレーに是非とも来い、一緒にやろう」と電話で言われ、
「結婚したので」と応じると、「短期間でも無理か」と。

 1988年に江本ビルディングが終わり、メゾン・ド・ローランとして賃貸事業開始となり、
バークレーでクリスの下で、大学院に入る計画を、元夫の理解を培いつつ進めました。
辞めることを決意して、日本環境構造センターの業務の引継ぎと並行して、
1988年後半から1989年前半に個人で増改築の設計をした実家の父の支援もあり、
1989年6月にバークレーの学生寮に入り、語学を磨き、9月に修士課程入学となりました。

 当時の西尾市長から愛知博跡地高層集合住宅計画の
(地域住民の意向からの)低層化の相談があったと、
白鳥計画がアレグザンダー教授のクラスの課題になりました。
 ところが、9月25日に実母から未明に電話があり、実父が「危篤なので、直ぐに帰れ」とのことで、
留学生なので学校には届けて、担当者に「直ぐに帰国した方が良い」と言われて、
その午後には飛行機に搭乗して日本に向かってました。
この時、何故か出国手続きが未了だったのが、大ミスでした。

 幸い実父は脳梗塞で集中治療室で適切に処置、治療されており、
石打丸山スキー場内の兄のレストハウスを建設中と知り、驚きましたが、
中断していたのを、再開させた後、
実父の意識が、後遺症が残っても、戻り、
「なんだ、早く直ぐにアメリカへ帰れ」と、私に怒って怒鳴ったのでした。
実父の愛でした。

 1990年12月に修士となり、
1991年1月には日本に帰国してましたが、1月半ばにメリーローズ博物館プロジェクトの為に、
ビジネスクラスの航空券が届き、バークレーのファカルティ・クラブに部屋があり(ベジタリアン
なので自炊できるシェアハウスに、しばらくして移りましたが)、
CES本部に入って、メリーローズ博物館を進めて、千種台公営住宅建て替えの低層住宅計画案を
バークレーで担当したのでした。それから数カ月に一度は、日本に帰国する状況になりました。
その間、元夫の導きで奥多摩に引越して、
彼の力で民家を住めるようにして暮らしの場となりましたが、
本格的な農業を実践するのは、当方には難しく、計画技術研究所に通い、
時間的に無理な時は練馬の実家から通うこともありました。
その米国と入ったり来たりの間に、疎遠になり心が離れ、「ここで離婚して、また
帰国して未だ好きなら、また結婚すれば」と、娘思いでも、当時私は知らなかった母の我慢、
利休生誕400年催しに参加できなかった不完全燃焼の思いや、兄の事、看病疲れ、
板橋プロジェクトで工事監理者が行方知らずになったりと、
少し妄想の傾向がある実母でも、経験豊かな大親友だと、意見にのってしまったのでした。
結婚式をした東野高校の理事の方から、今年5月に率直な質問があり、より端的に応答しました。


 話を戻しまして、盈進学園東野高等学校についてでした。
 1993年2月に、メリーローズ博物館は20年間は待たないと・・とのことで、
経費を清算して、荷物をまとめて船便で日本に送る準備中は、
バークレーで友人になった、小学校の先生のラークの
シェアハウスにお邪魔していました。その途中で帰国となり、
最後の荷物は、倉庫のある女友達に預けっ放し(捨てられていなければ今でも)で、
日本に帰国してから、チェックがエアメールで届きました。

 1993年3月には、
日本環境構造センターは法的に閉じたと総務・経理の先輩から伝えられて、
設計事務所や建設会社に入り、グリーンピース日本事務所も話が進みましたが、
これまでクリスから学んだことを生かすには、遠いと感じているところで、
阪神大震災があり、サンフラシスコ地震をバークレーで経験したので、
前に進まなければと意識しているところで、
江本ビルディングを紹介してくれて、支えて応援してくれた高校時代からの親友から、
新しいプロジェクトを紹介され、独立して事務所開設を薦められました。
そうして1995年4月に当一級建築士事務所を開設しました。
クリスにも事後報告し、皆、CESの所員は独立しているんだと、本部のランディにも
納得されて、事務所の名前も相談して、決めたのでした。

 1998年夏にクリスから、「東野会館:生徒活動会館:クラブハウス」の実施設計・見積チェック、
現地設計、工事監理の仕事依頼がありました。
再婚後3年経て出産し、両親にとり唯一の孫となりましたが、実母を避けて実家から離れており、
子供が生後10か月でしたが、直ぐに練馬から入間市に行かなくてはならないわけではないとのことで、
8月に保育園を探してました。
1歳になる10月に保育ママさんにお願いし、1999年4月には練馬保育園に
入園出来ました。再婚して3年目に子供が出来て、元夫のティエリの応援のお陰もあり、
生徒活動会館は、2000年9月11日の同時多発テロで、着工後間もない、配置決めの実験の結果報告後、
クリスがヒースロー空港で足止めをくらったと、「自分で良いと思う位置で良いから」と進めて、
学園の何森理事長のご理解や支持、宮本建設の熱心さもあり、無事に竣工しました。

 この続きは次回に、「BATTLE」についての所感も含めて進めます。

 思い出話で長くなり申し訳なかったです。お疲れ様でした☆彡