****************************

      よりハッピーになる微笑み空間をつくりましょう♪

           *生成された構造について*

****************************

 残暑お見舞い申し上げます。

  猛暑でも、無理せず盛夏を楽しんでいらっしゃる健やかな皆様と、
 心より願っております。



 
 息抜きもかねて、
1300年変わらず繰り返されてきた式年遷宮に当たる今年、
伊勢神宮と、奈良に駆け足旅行をして参りました。


 深い緑と、清い水の流れを渡ってくる涼風に深く感謝しながら、
元々、自然と調和し共生してきた永久に持続可能な英知、
国を興して統治する戦略に畏敬の念を抱きます。
多少の変化に対応する余力は残しながら、確りとした意志が貫く伝統の
重みに、自ずと安堵感を抱きます。

 そして奈良へと向かいながら、
瓦屋根の一枚一枚から、屋根の形、家の形、家並みの形、
集落の形とスケールの段階の豊かさ、稲穂が揺れる田んぼや里いも畑や
や栗やイチジクなどの果樹の緑と、
ため池と用水路と輝く水とのコントラスト、
穏やかな山並みとエコーする塀の瓦や庇と続く屋根勾配の緩やかさと、
近鉄線沿線の風景を思い出し、
「白鳳の微笑み」に浸っております。



 

 さて、今回は、前回の「桜台の家」から、どうしてそれが「微笑み空間」となって、
全体性を強めているのか、更に見てみましょう。
クリストファー・アレグザンダー著の「秩序の本質、The Nature of Order 2」から,
以下に、抜粋を取り上げます。
(本の購入は、こちらから、どうぞ〜↓
          http://www.natureoforder.com/ )

生成された構造

 ここでは、巨大な経済的コストを投入され現代建築によって創造され、
組立られた構造の社会と、生成された構造との違いに着目します。

複合性について

 息づいている環境を建設する中で、何が、本当の複合性か、具体的に表します。

 表面的に、私達は、複合性、複雑さに取り巻かれています。
現代的都市は、気の遠くなるほど複雑です。
建物は複雑です。生態系や、生物圏は、更により複雑です。
コンピュータやコンピューター・ネットワークや、ソフトウエアは、
全て驚くほどに複雑です。
従って、自然と複雑系理論、複合性を生み出す最善の方法について考え、
それも有効で意義深く考えなければないでしょう。
日々成長しながら、必要に駆られて、連綿と複雑さが、周囲に創造されます。
どのように複合構造が上手く形づくられるか考えて、
そうした期待に応えようとしながら。
かなり前に、私達は、
生態系や建物やコミュニティや美術工芸品やコンピューターや
コンピューター・ソフトウエアといった領域全ての中で、
設計と計画と建設の方法を見渡しました。
成功したといえる、
十分な複合性を産み出す正当な方法に到っているだろうかと。

 しかしながら、皆にとって顕かな
複合性の創造についての基本的原理はありますが、
社会における日常的な組立プロセスの99%の中で
全ての意図や目的へと向かい、
この基本的原理は無視されています。
その原理は、かなり成功している複合性は、複雑さは、
組み立てられた構造なのではなく、生成された構造だということです。

  人の脳は、最も複雑な神経ネットワークですが、
他の神経ネットワークと同様に、
集められて組立られたのではなく、生成されたのです。
トラのような美しい生き物も、アマゾンの熱帯雨林も、
組み立てられたのではなく生成されたのです。
嵐を呼ぶ積乱雲が近づく海上の日没も、
組み立てられたのではなく、生成されたのです。
私達が薪で火を起こす時、戦略的に薪を配置して、
燃えさしが大きくなっていく間の放熱状態に向かって、空気の流れをつくり、
その為の構造を生成するのであり、暖炉など火の構造はその結果なのです。
スフレなどの菓子も、サラダといった単純な料理も然りです。
楽譜によって刺激され、
コードの組合せやリズムによって捕え難くなりますが、
音楽も然りです。
そして、建築やコミュニティも、
それらの複合性は、組み立てられた構造からではなく、
生成された構造によるものなのです。

 さあ、幾何学的に観てみましょう。生成された場合、どの形も息づいています。
生成された構造、生成された形は、生きているプロセスを使うことで導かれるので、
それは私たちの護符となり得るものです。
実際的な問いとしては、プロセスが、生成される構造を創るのか否かです。

 生成された構造として環境の全ての部分をつくるという要求が、
一度起こりさえすれば、詳細にわたって、
生きているプロセスの様々な特質が見えるように、
私達を導くのを助けるでしょう。
生きているプロセスについての適当な定義は、
結果としての形に焦点を当てることによって、
刺激されて導かれるのです。
一つの目標として、複合的幾何、複雑な形態を意識したなら、
生成された構造も、生きている構造も生きているプロセスも解り得るでしょう。

生成された構造を理解するための例

 以下に七つのインドの集落のプランを取り上げます。




 ABCは、生成された構造です。DEFGは、組み立てられた構造です。

その違いは何でしょうか。直感的に、前例グル―プが、面白く興味深いです。
より複雑で、より描き難いですが、より豊かで、より重要に感じられます。
後の方は、
単純で退屈に感じ、一瞥で充分と感じます。

 少し洗練された見方をすると、人間の集落として注意して見ると、
前例グループの方が、後の方よりも、住むのにより良いと見ることが出来ます。
家々はより区別しやすく、
空間はより満足できるもので、
暮らしの経験の豊さが滲み出ていて、
各々の家は形も配置も独特でユニークです。
加えて、密度や、家と空間の間の重要な関係のパターンにより、
高度に
分化しています。

 DからGまでの例では、より不毛で、そこにいるかいも感じられないのです。
人間らしさから、社会的に情緒的環境として、前の例と比べると満足できないのです。
直感としても、どうして前例グループの方が、深く秀逸と感じられるのでしょうか。

 「生成される」という概念は、単にプランの形態を見て解るのと同じようにはいかず、
率直ではないのです。
例えば、建築家が2,30年間も、多様性と美という結果となるように、
生成された構造の美しく生きている特性を真似ることが出来るようにと、
様々な方法を考えてきました。
Fプランは、Rajindar Puriによるもので、
全てが、生成されたものとしての
よりダイナミックな特性を備えているようにと、
空間や家の多様性を大事にしている様子が伺えます。
しかし、生成された構造の本質的な質に至らず、
組み立てられたキャンプに

確りと配置されていなければならないのです。
その配置構成が、デザインにより創り出され決められいて、
ただ見た目がより良くなっています。
組み立てられた構造の質には、触れていないのです。

 Dプランは、旧友のドーシー、B. V. Doshiによります。
そこに住む家族のための、
彼ら自身の家を創造するという全体の考えがあります。
全く、素晴らしい理想で、先進的例です。
しかし、ここでも、内も外も、メカニカルです。
人間らしい居住環境のためにと、
素晴らしい意図は解るのですが、図らずも、機械的です。
このプロジェクトは、1989年に完成して、
厳正な構造の中に許容される家の配置を個々にデザインしているので、
居住環境として高い評価を得ているものです。
しかし、最も評価できるのは、
各家族の参加の下で進められ実現したということです。
残念なことに、厳正な硬い殻の中で、
各家族の個性が、表面的なレベルで添えられているのみなのです。
拠って、このプランも生きている構造の本質には到らず、
生成された構造にはなっていないのです。
これも、組み立てられた(抑え込まれた)キャンプの中で
位置づけられなければならないのです。

 Gプランは、DEFよりも、生成された感じがし、
組み立てられた感じは少ない方です。
組み立てられた区画の中で、生成された構造の特質を持っています。
これらは実在する例で、公的住宅計画です。
家々は少しづつ異なっていて、家の前は少し凸凹で、
道も少しジグザグなので、生成されたように見えます。
FプランよりもGは多様性はより本物らしく見えます。
しかし、それでもその区画のプロポーションの制約から
多様性の範囲はわずかです。
相互的なスケールの段階において均一の傾向が強いことから、
生きている構造の不足が、実際の場所に立って体験したのですが、
プランの中核に影響し、
住宅における人間の独立性のリアリティと社会的階層性を、
このプランの本質的質の中で表しています。
Gプランも、まだ、組み立てられた構造です。

時間をかけて展開されていく構造

 生成された構造であるA、B、Cの例において、
私達は、それらが時間をかけて展開したいったという強い感覚を感じ取ります。
私達は、それらのプランは、時間をかけてのみ生成されることが出来ると感じ、
そうした直感的確信すら持ちます。

 一方で、DからFまでの例では、
そのデザインは、短期間で一度に一つの配置計画として創造されています。
勿論、確かな感じとして、
DEFは、短期間に創造されました。
この期間が多少あっても、やはり時間として短いのです。
数か月間、時間をかけて、
それらを創造する為に設計板と向き合って検討し続けたのです。
しかしながら
DからFの例において、この時間は、重要ではないのです。
A
からCのプランでは、同じ時間を掛けるのでも、
それは深く本質的な構造をそれらに与えるなんらかの意味のあるやり方で、
起こったと、解ります。

D
からFのプランでは、時間の役割は些細なことです。
時間が、構造に影響するのではなく、
そのデザインに貢献するものでもないのです。

これから、この意味のあるやり方とは、どういうものか、理解してみましょう。

 いかに失敗を断念することなく慎重に扱うか

 私達が事物を吟味する時に、決定を下すために、
その事物の要素(部分や、線や、端や、配置や、色味や、寸法)を見るでしょう。
かなり荒っぽい言葉ですが、其々の線が、
異なる決定を導くと言えるかもしれません。
各々の線が、付近やその両側と仕切り、
空間を創っていると言えるかもしれません。
従って、典型的ですが、
(サイズや凹凸や、隣接の仕方や、構成といった)4つか5つが、
空間を導くと言えるかもしれません。

 加えて、上記のような小さな要素のみではなく、
(道路や家々のまとまりや、中庭や、塀や、仕切り壁や、
路地や街区といった
)より大きな要素にも、重要視するべく意識します。
それらは、なにか間違ったり、失敗したりしていないか、
或いは上手く適合しているかと。
AShilnathプランでは、150宅地が在ります。
このプランでは、最も低いスケールの段階、最少の寸法単位ですが、
4本か5本の線を伴っており、合わせて700の判断で出来ています。
更に、広範囲にわたる大小の多様性があり、
半分くらいは、かなり大きいサイズです。
拠って、
Aプランでは、合わせて1000くらいの要素の判断となります。

 それぞれの要素を決めるのに、間違う可能性があります。
それぞれの既存の周辺に合わせて、
周囲の既存の構造から条件が成立して、
近隣と上手く適合するように、方位を決めて、
配置や大きさを決めていくのですが、
それらが、失敗するかもしれないのです。

 どのくらい失敗し断念したか勘定をして、
代替案を試みてみましょう。
そして、生成された構造の優秀さを見ることが出来るでしょう。
それらは、失敗を失敗で無くしているのです。
これに対して、組み立てられた構造では、失敗は失敗です。
実際、それが結果となっています。

 生成された構造の重要性

 生成された構造の重要性は、失敗の考え方にあります。
組み立てられた構造には、多くの失敗が、常にあります。
それも、数えきれない程の多くの失敗です。
それは、失敗の積み重ねとなる特性であり、それが組み立てなのです。
故に、時間をかけて生成されたように創られても、然りです。
しかし、生成された構造では、殆ど失敗は無いのです。

 生成された構造の場合、一体何が起きているのか見てみましょう。
其のために、強力なポイントを取り上げます。
組み立てられた構造の一つである
Dプランと、
生成された構造の
Cプランと比べてみましょう。
Cプランでは、お仕着せは無く、多くの細部が、
小さな部分が有効で、上手く働いています。
個々の家が、素晴らしい道空間に面しており、
その外部空間と内部空間は上手く交差している関係です。
子供たちが安全にノビノビ遊べる空間です。
個々の家構えは、明確です。個々の空間が独特で、唯一のものです。


(☆〜この一つ一つ確かめていく段階で、既存構造保存強化となっているか、
部分と他の部分、部分と全体との関係性を、センターを生成するのに、
自ずとその上手くいった形態から、
15の幾何学的性質の何かが、貢献していると感じられます。
仮設を現場で正しく適合させていき、
それも、段階的に一歩一歩進めて、
全体を見渡して後戻りすることもあり、
当初には予測しえない結果ともなるのです。〜☆
原本の後述から訳者の補足)

 この考え方を表す劇的な例として、
組み立てられた構造の
Eプラン(約400世帯)では、
各要素にいくつかの失敗の可能性があります。
Eのような機械的な計画では、各家が4本の線で構成されるとして、
1600の要素(線)の失敗でしょう。
机上で描かれた線ですから、
現場において既存の構造を五感で確かめて調整する機会のない状態です。
専門的な計画・設計・開発プロセスでは、
この適合の失敗が避けられないのです。
それらの創造のプロセスの中に、
適合させるために確かめ調整する機会がないのです。

 対称的に、Cプランでは、
一度に一つの判断で、一つ一つの決定が、
その場で、その住居内で、直接的条件の下で、
そこで暮らす人々によるもので、それらがコツコツと積み重なっています。
この比較的ゆっくりとした展開のプロセスの結果として、
実際の状況からの要求を伴って直接的に人々の手の内で、
異なる個々の人々の手によって、
中央集権的な判断ではない結果として、
失敗としてあり得たかもしれない
4本か5本の線は、
その場で適合する為に修正されて、失敗とはならないのです。

::::::::::::::::::::::::::::::

次に、人間の胚構造の生成でも、
適合するか確かめながら一度に一つだけ展開していくという
同様の現象が起こっていると、
自然現象例が、挙げられています。

The Nathre of Order 2P187-188

::::::::::::::::::::::::::::::

Aプラン、Shilnathにおいて生成された複合性

 その場で適合しているか確かめながら、
一度に一つを決定し進めていくというやり方で、
自ずと複合性は顕れてきます。
内部の密度と既存との重要な関係を築きながらです。
全てが意味のある関係となるように、一つのラインを決める時に、
失敗の可能性を抑え、
適合するようにする結果、成功するのです。

 ここで、
Aプランの一部分を拡大して、取り上げてみましょう。
 
 ここで、ほぼ中央に、一つの小さな家が、ポツンと建っています。
この家は、一度に多くの働きを担い果たしています。
まず、右側の外部空間を閉じています。
これによって、その右側の外部空間を、よりプライベートにして、
自然な境界を形づくっています。
しかし、半分は開けていて、動きや視界を妨げません。

 私達は、この微妙な「開きを残しつつ閉じている」ことが、
人々が其処で暮らしているという実際的な事柄、日常的な経験を考慮して、
社会的な情緒的な人々の日常生活を、
彼ら自身が指揮する満足感を得られることにつなげるのです。

 再び、あの小さな家を見てみましょう。一つの軸線を描いていて、
上には、より長い家が、その軸線を伸ばしています。
このことから、上の長い家との協調性と関係性を感じます。
そして、互いに向き合っています。
こうした特定の熟考は、実際的な人間的な理由のためです。
さらに、向き合う二つの家の間に、
美しい矩形に近い外部空間を形成しています。
これらの建物を創った人は、寸法や、形を、
人々が遊んだり会話したりと心地よい空間の為に決めていったのです。

 この小さな家は、道空間に囲まれています。
結婚や、より気の張らないものでも、
何かの祭りの時の支点としての潜在力を持っています。
家の周りで行列や、踊ることが、滞ることなく出来ます。
更に、この小さな家は、その下に続く狭い路地とも、重要な関係を持っています。
この小さな家の下にも、矩形の外部空間があり、
狭い路地が開けるところとなっています。

 そして、最後に、この小さな家の左側には、
家並みが続き、それらの終点となっています。
この私達が見ている小さな家自体、
左側に3、4軒続く家並みと重要な関係を持っています。
これらの家と、一つの壁や空間や端を形成しています。

 この小さな家は、重複してつながりながら、
少なくとも
7つの意味のある関係の中にあります。
それらの関係の各々が、センターとして、意識の具現化、実体化されて、
7つのセンターは、強く生きているものです。
さらに、その関係性は、実際の日常への考慮による動機となっており、
人々の最も普通の骨折りと要求と願いから起きています。
素晴らしい空間を創るための審美的芸術的な努力ではないのです。
むしろ、それらは俗っぽく、感覚的で、
本当に、実際的な考えや情緒や感情や行動やゲームや
商売や近隣の行為の実際的表現なのです。
そうしてそれらは、なかんずく地上に顕れたのです。

 Shilnath150世帯のいずれもが、地域社会に入り、
同じようなファッションで、他の家と、それらの外部空間と、
無数の重なり合う関係の中にあります。
それらの関係性とそれらを形成する細胞膜の連結性の微妙さは、
いかなる生きている構造においてもその命の大部分となっています。
それらの関係性の其々が、ひとつのセンターを形づくっています。
ひとつの例から、
細心の慎重な配置やサイズや形を検討し決めて行くということから、
息づいている重要な
生きている
7つのセンターについての議論となっています。
こうして、
150世帯×7つのセンターとして、
かなりの数のセンターが重なり合って
一つの全体となっているのです。
これが、いかなる生きている構造の中での、
本当の典型的な複合性であり、
このような複合性は、
生成された構造の時にだけ創られることが出来るのです。

The Nature of Order 2 p.180189

*******************

 練馬区の戸建住宅を中心とする住宅地が、
生成された構造と感じられる所以ですね。

 一企業や、一開発事業体が、
無機的関係性を集めて組み立てられた集合体である机上のプランを、
金利に振り回されて一気に創った住宅地が限定的である故に、
愛着を持って、普通の住宅地を大切に育てられるようにと願うのです。

 ここで、前回の「桜台の家」の周辺の住宅地図を見てみましょう。
小規模の区画整理後らしい
直線的構成の駅周辺から、農地から宅地に変遷していった地域への移行が伺え、
興味深く面白い、より個々の家と空間の豊かな関係が、独特の街並みを形成しています。


 ニュウ―タウンなど開発住宅地が組み立てられた構造であるのに対して、
生成された構造と感じられます。
それ故に、この生きている構造の本質を、
それを破壊することなく大切に育てて強化したいと願うのです。
勿論、全て良しというわけでもなく、個々の問題はあり、
其々、修復していくべきですが、
その成り立ちから、「生きている構造」が踏ん張っており、
近代化の中で小さな政府、豊かではない政府に自然と頑張れ過ぎず、
個々の家が、強力ではない民の力が頑張って来れて「これで、いいのだ」と・・・。

 そして、まだ高度成長期でありながら、
同じ方向への先進例として、阿部勤氏の「桜台の家」が素晴らしいと思うのです。
平面的に見ているプランですから、その「より良さ」を理解するのに限界があり、
前回の写真に助けられますが。
(どうぞ、こちらから、写真もご覧頂きますよう〜
http://www.smilingspace.com/homepage1/male%20magazine/mailamagazine20130609.html )

更に、道と宅地の間に塀がある地域なのですので、
上記のAからGまでのプランとは性質も多少異なり、
Aプランの特別な性質を獲得している「一つの小さな家」とは異なる性格です。
しかし、既存の家との関係、既存の庭との関係、家と前庭との関係や、
前庭と既存の塀と道路との関係、
新しい家と道路との関係や側面の庭と道路の関係、
家の隣や、向かいとの関係、家並みとしての関係と、
センターが生き生きとして複合した全体性が、力強く息づいています。
その地形に適合した農道の緩やかなカーブが描かれる周辺の地域と、
塊としての大きさや、空間密度や、端の在り方と、
区画整理された地区との緩行地帯らしく、
有機的な関係を成していて、
そこに在ってこそ、また、それがそこに在ってこその地域となっています。
それ自体も、その地域も、それを含めた全体も、ユニークです。

 その地域にも、他の練馬の住宅地と同様に、
車が一台やっと通れる路地や、
自転車が通れる程の路地や、
庭と路地の境が分からない外部空間が在り、
大切な一つの生きている全体性に貢献しているセンターと感じられます。

消防車が通らなくとも、
雨水排水をコントロールし洪水も避けられる路地下貯水槽を設けて、
井戸水ポンプで、初期消火を担えるコミュニティ力も、
間違いなく全体性に多大に貢献するものでしょう。


 ここまで、読んで頂きまして、どうも、ありがとうございました。
お疲れ様です。
  
 最後に、すばらしいニュースです。
当メルマガでも、取り上げておりましたが、
埼玉県入間市にある「学校法人盈進学園 東野高等学校」の
建設記録でもある「Battle」が出版されました!!
私は、1985年の1月から入所し、最後の設計の段階で、
スケッチと図面と現場と模型と、確かめながら決めて指示書へと・・・
懐かしいです。
ここでも、「生成された構造」への道にどっぷりと浸かって頂ければ、ハッピー♪
どうぞ、こちらから購入を〜↓
http://www.patternlanguage.com/
または、アマゾン(日本)でも購入可能です。

 それでは、次回をお楽しみに〜♪