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☆よりハッピーになる微笑み空間をつくりましょう☆20220817号☆
☆「それでも少しずつ前に進まなければ〜2」☆
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残暑お見舞い申し上げます
蝉の羽音の下、石に浸みるように、大切に打ち水にいそしんでおります。
お元気ですか。
さて、前回、クリスこと、クリストファー・アレグザンダー教授の
訃報についてお伝え致しました。
それを、信じられなかったフリーズ状態から抜けて、指導されたことや、学んだことを、
やり残したことを、思い出し、整理しつつ、一般的なところで記しておりました。
今回は、盈進学園東野高等学校プロジェクトを中心に進めたいと思います。
再来年には、新天地での開校40周年を迎えられます。
樹木は育ち、建物は風格を増して、
1000人以上の生徒と、教職員の方々が暮らす学園村です。
卒業生たちのホーム・ビレッジ、生涯の拠り所となっています。
山越え谷越え、主体的にSDGsも、
日常の教育で実践されています。
一時的な流行に流されずに、時を超えた質を育てていく今後、
10年後を、近い将来を考えます。
既にある素晴らしい環境、景観、
大材レッドウッドなど多く用いられた耐久性のある木造、
密度のある組積造、当初は苗木だった大樹、多くの卒業生達、PTA、先生方と、
全ての既にある宝、生命エネルギーの集積を強化していくのが、持続する学園、
カーボン・ニュートラルなコミュニティに、
地球環境にも貢献していくことになります。
長期的な気候変動、それへの対処、持続する地球社会の為の意識から、
新しい基準にも出来るだけ合わせて、地球市民を育てていく拠点になるでしょう。
その為に、段階的に少しずつ無理が無いように実行される
10年計画をラフスケッチと共に思い描きました。
まず、第一に、拍手です。
アヒルや鯉の糞で、ホテイアオイなど水草でも水の浄化が間に合わず、
井戸掘りも検討したが深い水脈への到達は困難で、
ようやくビオ・トープにより、
循環する森からの湧き水のような、酸素を含んだきれいな水の流れを造り、
こうして人智から、池も森も美しく自然の力を利用できる学園となり、
その先生方の苦労も、生徒たち、卒業生達への教育の実践となったのでした。
まだ20世紀末から21世紀初めのことです。これは一例です。
そうして日常的な保守管理や手入をされて清々しい学園です。
しかし、学園でも検討されているように、
大体的な建物の補修は必要です。
足場を架けての大講堂や体育館の外壁などの遮熱塗装や、
1980年代前半では断熱窓ではない、
既存のレッドウッドの木製建具の屋内側に、格子は既存の窓のみで、
引違い障子窓のように生活に馴染み、景観を損なわない、
断熱サッシ(可能であれば木製)を取り付け、
軸組み造の壁体内に断熱材を充填するなど、
省エネルギーを意識した外皮性能の向上を伴う、
補修工事が求められます。
第二に、今後、将来の為にも、やはり、
景観を損なわない、太陽光発電による可能な限りの自家発電システム設置が、
期待されます。
強い存在であり続ける、美しい景観上重要な、
屋根の上には決してソーラー・パネルは設置せず、
周囲の山並み、田園、元々農園であった起伏地、丘の上、農との併用で、
学園村の南側、崖線に沿って、手間のかからないカボチャ畑と共に、
ソーラー・パネルが、深基礎で安定する架台に設置されて、
しかも、それらの設置は、景観を塞がないように、目線以下となります。
100m走トラックの面積規模と考えられますが、
休暇中は売電し、学園村祭りで振舞われるパンプキンパイなどが、お楽しみです。
第三に、C.アレグザンダー教授、CESによる、
当初からのユーザー(学園側)参加のパターン・ランゲージ、
全体模型、敷地内での竿立て実験と作成された基本計画、基本設計の中で、
重要な建物である、図書館・研究棟の建設についてです。
教育界でも、建築界でも、既存の問題解決の視点から、挑戦的な試み故の、
様々な試練を乗り越えて、還ってそれが、
教育の実践とも生徒たちや卒業生達の学園への(郷土)愛、
誇りや帰属性、一体感を育てたのでした。
(一昨年から感じたことを、クリスに報告できなかったことが悔やまれます。)
2000年には基本計画・設計からのクラブ・ハウス(生徒活動会館)を完成させて、
2015年には主体的にスタディ・ハウスを完成させて、その間にも、
サッカー場やテニスコートや、送迎バスの乗降場など整備が続けられています。
生き生きとしたエネルギーが感じられます。
正に環境と一体になって良い相互作用が生まれています。
それが、当地への移転の理由となった教育環境からの問題、
つまり、ただの都市化、荒れる方向に進まないようにと、油断大敵です。
そのために、地形や景観に合わせた、
当初からの敷地利用、配置計画がガイドになるのです。
個々の建物の個性は、その行為のための空間であり、
敷地内での立地と共に、学園全体に貢献して、
学園全体との相互作用を生んでいるのです。
食堂棟1階の間仕切りによる空間構成も然りです。
メカニカルに粒として集合させ管理し易くする為の、
矯正とはならない教育方針のはずなので、
潜在力を抑えずに全体へも貢献できる、
個としての強さを育てる教育をする学園なので、
均一な空間ではなく、広々とした空間のみではない、内向性と外向性、
コミュニティとプライバシーのバランスが絶妙な空間で、
自然環境と調和して全体性、教育環境を成し得ているのです。
その上級編が、上級研究が行われる図書館・研究棟と言えるでしょう。
それは、敷地の南西部で、
2つの大学棟(特別教室・図書室・講義室)とその間の多目的ホールを挟んだ、
武道棟の向かいで、四天王の一体のように、全体性を強化します。
現状のショッピング・モールの駐車場のようになりつつあるところで、
現在のニーズも配慮し、1カ所9台から16台のパーキング・スペースの
パターン・ランゲージを利用して、調整しながらです。
卒業後も学びが続けられる拠点となるように、
C.アレグザンダー研究者の拠り所ともなれるように。
多くの歴史に残る著作と共に、学園自体が、その実践として、
クリスの教えの泉のようですから、メモリアルともなるでしょう。
デジタル化が進む予測から、
メカニカルに物的一粒子として操作されない(強い微電磁力を持つ)個を育てる、
全ての生命バランスと、
自然そのものである人間のための、人間らしい環境を探求し、
工業化社会、社会民主主義が進んだ20世紀を通して、現代の経済社会の中でも、
主観を大切に、手仕事を大切に、愛おしめる環境づくりを目指し、実践してきた、
正にその具現化の代表的実例なのです。
図書館棟のメイン・リーディング・ルームは、胎内のように3階で、天井高5.1mですが、
正に、読書をする、読むための空間になっています。
節電でも、日中であれば、人工照明無しで、通風良く、
強すぎる陽光や日射や日影に邪魔されることなく、
集中できる空間になっており、見張られることなく、探されることなく、
優しい光で、英知の神に励まされるような、
それでいて大地を踏みしめ、タンポポが咲く野原にいるような空間でしょう。
太陽が、武道棟の向こう、東から登り、図書館棟の上へと進み、
その向こう側、西へと沈む、その動きに合わせているからです。
国会図書館等の蔵書データからダウンロードしても、
此処で集中して読むことが出来るのです。
音楽や波の音で集中できるようにイアホンを付けなくても。
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思い起こし始めると、堰を切った流れのようで、
また整理するのが大変になり、話が前後してしまいます。
最近、研究者など2方向から質問があったところに関連して、
これからの後半に加えたいと思います。
確認後、アレグザンダー夫人からも、
知っているところを語ってあげてとのことでしたので。
東野高等学校建設のために、
元々の、三鷹市の盈進学園高校校舎で計画が始まり、
(模型自体が4畳半くらいの大きさかと、記録映画からわかるのですが、)着工前から、
現場から歩いて5分以内の民家に開設されていました。私が入所した時は、
見事な欄間のある和室2間にA1が載る製図台が、5,6台はあり、
押入には図面ケースとファックス、事務机など、両側に廊下があり、
住吉棟梁、石久保氏が製図台に向かい、
佐々木氏、小西氏も台と現場の往復で、明るく活気があり、
私は2階でスケッチや、大講堂照明器具の原寸の部分模型を製作し、
大講堂の20分の1の模型は、難波先生や先輩の中埜氏のパターンランゲージ勉強会から、
やはり急遽入られた修士課程の辰野さんと、ダイニング・キッチンの床で作っていました。
玄関から直ぐの所長室や打ち合わせ室からはバス停方向が見えて、元々は書院でした。
開校後、日本側代表の中埜氏、
住吉棟梁、石久保氏、佐々木氏と、小西氏は、役目を終えて、
2期工事のために、事務所は縮小して正門の2階に移りました。
そうして、塩原氏が、一期工事から続けて管理建築士として、
レベリングに神経を使ってホームルーム通りの外構や、
私か担当した大講堂内装工事の足場工事を見ました。
同時に、本駒込の江本ビルディングを基本設計、
確認申請、実施設計と進めていましたが、
着工後間も無くして、ご実家の状況から、辞められて、
当方が管理建築士となり、
日本事務所所長の、計画書や論文執筆に集中している
ハンスヨアヒム(ハイヨ)・ナイスが、
博士課程の論文など進める為に米国に滞在している間も、
松井源吾教授から紹介され担当された
構造博士の武田良春氏(T&Tエンジニアリング)の指導と
中間検査同席で工事監理し、木部建設主任の正司氏と共に進めたのでした。
1987年夏、オーストラリア(ニューギニア)から、クリスの弟子、
高弟のデビット・ウイーク氏も中間検査適合後に見学されて、
2階スラブの状況を見て、水勾配などチェックしていました。
(事務経理担当の先輩所員寸田さんが、
「ハイヨが彼に会えるように米国への航空券を予約したのに、
激怒されて、会わないように早める変更をするようにと言われたけど、変よね?」とは、
伝えずとも、彼は感じており、
東京を案内してから元夫の筒井氏の勤めていたアトリエを訪問して、
竹中時代に教わった浅草の専門店で、各地の日本酒を堪能し出来上がり、
墨田川の花火を観て、二本木の事務所まで二人でお送りしたのが、
懐かしく思い出されます。)
並行して、高校の先生方からのリクエストということで、
食堂棟正面に日除けとなる庇をつける仕事があり、
現場実験や、部分矩計図など作成し用意して、
大工の宮野さんが施工しました。
当方のホームページの作品ページ目次にその写真を載せていますが、
クリスが当初の狙い通りの姿であると大変喜んでいると、
学校側から、伝えられました。
また、埼玉県景観賞授賞式に、当時の酒井田理事長から同席を求められて、
最後に入った末端であるので難しいと繰り返しても、
クリスからの指示とも伝えられて同席することになり、
委縮している当方に隣席の理事長が
「最もふさわしいと思っていますよ」と、禅問答のようでした。
ハイヨには、複数回、レポートをエアメールで送っていましたので、
初秋に帰国後、伝えることはあまりなかったのですが、
ハイヨから、食堂棟のあの写真のネガを寄こせと言われた時は、
冷たい圧力と恐怖に近い感じがしましたので、
無言で直ぐに提出しましたが、内心「どうしてだろう?」と。
(その撮影は、コニカ・ミニF1によりましたが、
ポケットに入れて、現場でもどこでも、
携帯カメラのない当時ですから、気に入っていました。
バークレーのメリー・ローズ博物館の模型写真を撮る時も用いていましたが、
構造のゲーリー・ブラック教授が、その小ささに驚いていました。
当方の机に置いたはずのそのカメラが紛失して、見つからず、
急遽、使い捨てのカメラで模型撮影していると、
それに呆れたゲーリーが言うには「ハイヨが持っていたが・・・聞いてみたら」と。
そのネガのことを思い出して、問わず仕舞いで、
しばらくして別のカメラを購入したのでした。)
次にメリー・ローズ博物館を担当した経緯についてです。
ペンシルバニア大へ短期間非常勤で教えに行っていた元夫が、名古屋が、
非常勤講師で通っていた福井大学への中間点だからと、
名古屋市公営住宅低層集合住宅プロジェクトを、
ネットワークを利用して支えながら待っていたが、
1990年8月後半に「(CESで)働きたいと」とのことでクリスに伝えても
「君の為に良くない状況になる」と即答で、
また当時ワーキングビザ取得は難しく、
一方で、実父もリアビリ中で、経済的な理由からも、当初から修士課程は1年半の計画で、
その通りに1990年12月に修士号取得後、
白鳥計画の20分の1の模型を一気に作成し、
早朝、写真撮影しクリスに模型と共に提出し帰国しました。
それでも、その1年半は集中して、夏期に大変魅力的な講義があり、
1990年8月前半には、カリフォルニア州立大バークレー校ならではの、
トマス・クーン等の書籍をテキストとする講義でも単位を取りました。
バークレーに入る前の夏に、沖縄で、
元夫に紹介されて一緒に入ったアナンダ・,マルガというヨガ・スクール主催の、
集中(女子)合宿があり、昼過ぎにはインド哲学の講義でした。
とても穏やかな声で広範囲に網羅された体系について話されたのでしたが、
1時間半程すると、寝てしまっている自分に気が付くのでした。
バークレーでも、その仲間たちが、生化学博士の科学者、プラクティショナーでしたが、
車に同乗させてもらい、仲間の邸宅や家で、ヨガ、瞑想をした後は、ベジタリアン・ランチで、
その後は、やはり静かに落ち着いた穏やかな声で討論するので、
ついうとうとしてしまうのですが、脳内には入っていったようでした。
(かれらが、地球の食糧事情のためにもと、大豆ミートの味をミートに限りなく近づけて、
ビヨンド・ミートとして開発したのだと。
当方は、本物かベジタリアン・チキンか区別がつかないこと自体が難しく、
口にしないと決めましたが、
肉の味を追求する研究への熱意を語っていたのが懐かしく思い出されます。)
其のお蔭で、物理専攻や、インド系哲学専攻の博士課程の院生が、講師と長く討論するのにも、
全くのお客様にはならずにすみました。
ところが、レポート提出後、講師に呼び出され、
論文の書き方がなっていないと呆れられて、
丁寧に赤ペンされましたが、それらを吸収し直して再提出することが出来ました。
修士課程修了のサインを、指導教授のクリスにしてもらう時に、
学校からの成績表を見て、クリスのthe Nature of Orderの講義や,その応用クラスや、
パターンランゲージでの設計クラス(サラ・イシカワ先生)や、
ゲーリーの構造の基本と応用の二クラスや、CADのクラスと、
それらの結果は大体Aで良かったのですが、
クリスの大きな目玉が飛び出しそうになって、その夏期講義クラスのスコアが「B+」と驚き、
「博士課程だな」と。
元夫が待ち、実家の状況や、経済事情もあり、それは考えていないと応答したのでした。
また、その秋には、クリスが、チャールストンのシンポジウムで、
盈進学園プロジェクトなどをレクチャーした後、
「いっしょに、やろう」とチャールズ皇太子に激励されて、握手をされたと、
大きな手で当方の手を握り振って握手して、
「伝えたかったんだ、この感じを」と。
まさにその力と、Onenessの量子が、使えられた感じでした。
そうして、元夫の顔をみながら、
「メリー・ローズ博物館をやろう」とクリスから電話で言われた時に
「Yes」と即答してしまい、
第一期計画開始にほぼ間に合ってアンカーとして加わりました。
(そのプロジェクトは米国英国間で断続的に進み、
二期計画の為、バークレーに戻って、プロジェクトが再開し進めて、
一段落した時に、クリスから「続けたければ、離婚するように」と言われ、
既に記しましたように離婚しておりましたので、そのように応じました。
理由を聞かれて、概略、結婚後のこと、自分のローンで購入した建築全集が、
だぶっているからと元夫に勝手に売られたことや、
自分が欲しい「村野藤吾建築図面集」を購入しようとすると元夫に止められて、
「自分の収入は自分の買いたい本代など文化的に用い、
貴方の方は、食費など生活費にすればよい」と言われ、
離婚した方が良いかもしれないと、水木しげるの妻のようにはなれないと、
また夫の鉛筆を削る自分が想像できないと、
決定的であったのは、
実母のアパート2世帯分をつなげて、1世帯分の家賃と厚遇されていても、
3か月以上滞納され、4か月目で、当方の家具が置いてあるので半分は支払われたと、
実母に言われ、
「早く嫁に行け」と家から出して自業自得と思いつつも申し訳ないと・・・。
どこまで応答したかは定かではないのですが
「元夫に別の関係が出来たので」と。
ひどい勘違いの噂に抵抗するために、
尼のように自分の髪を切りましたが、
その様子を見て、クリスもゲーリーも驚き、
ゲーリーが、クリスに
「プライベートに干渉するな!離婚を仕事継続の条件にするなど、とんでもない」と
激怒して抗議したのでした。「でももう離婚しているんだ」と。
お恥ずかしい内情ですが。完成直後の学園で挙式や披露宴までして、
何故離婚したんだと、今年の5月の問いも含めて、再三、質問されますので。)
「Battle」を読んでいると、様々なことが蘇ります。
2013年頃に、クリスから電話で、
「大講堂の内装実験の記録映画を探しているが、
日本事務所の資料を保管している君のところに無いか」と問われ、
「見たことが無い。ビデオは、寸田さんがプレゼントしてくれた
千種台公営集合住宅建替計画住民参加を含んだNHK放映のだけだ」と応じました。
その後、日本側代表であった中埜氏から電話で
「僕もクリスから問われているんだけどさ、
何しろ、それを持っているはずの人が、行方知らずなんだよな」と。
この電話から、暗に、そのS氏にとっては直接の先生の中埜氏の指示により、
大講堂最上階の設計事務所資料保管場所から持ち出したのだと考えられました。
2015年盈進学園建設までの「Battle」出版後、本が送られて、
クリスから確かめたい点があると電話で言われて、謝意と共に応答しました。
それは、まずは当方の所感と、
大講堂の照明器具の原寸模型による現場実験の写真についてでした。
クリスは、注意はしていても、
実際の最終版は見ていないか、直し切れなかったようでした。
当方も然りですが。目次の後のページで、日本側事務所スタッフの名前が、
スタッフではなかった当時を知らない人の名前になっており、
偶に見学する客人の名前が含まれており、
またそのクリスに問われた
大講堂照明器具原寸模型での実験写真の名前も姓は違っているし、
当時、客人をモデルにして、
彼女の大講堂の足場上での撮影への協力を強いられたS氏が、
その直後、公私混同に憤慨して事務所で所員たちに話していたのを思い出して、
写真の人物は、モデルのようにハイヨの指示通りに足場に上がったその客人のものでした。
英語と日本語とでの間で起こり得ると、それらだけ、
アルファベットも一字違えて絶妙に意図された粗さのようでした。
クリスは気が付いていても、主張できない状況で、
まるで実際の現場実験の写真をすり替えられた当方に黙認を、
あるいは無視を促しているようでした。
長年、大学院生を指導してきているので、
そうした社会的プライドを気にした競争社会で起こり得ることを、
表裏共、理解して、長年、指導教授を務めていたのだと、察したのでした。
(その名前が入れ替わった実際の日本側スタッフK氏は、
自身が紹介をした当方が入所する前に、
その客人、つまり所長の彼女が働くスナックで、所長に彼女を直に紹介されて、
運転役の大講堂照明器具の現場実験の写真撮影協力を強いられたS氏も寄り添って、、
良く見知っていたのでした。)
第一印象として、
美しい写真と既に歴史を感じさせる図面、記録、貴重な資料が詰まっていて、
よく出版されたなと感じたことです。
そこは、実際は知らなくても、マギー、アレグザンダー夫人の働き、
功績による処だとも思いました。
一方で、2012年から2015年までのクリスとハイヨの力関係の変化も感じました。
2012年から2013年は、欧州でのパターン・ランゲージ研究会の大会や、
クリスが再婚して英国に移住し、愛娘のイタリアにての結婚式で花嫁の父となり、
一方で、田端の土地区画整理事業地域内の高層集合住宅計画の頃でした。
それは、当初の予算から7階建ての基本設計でしたが、
税理士や銀行との関係が加えられた後、
施主の意向でブランド的に名前を利用されるだけの恐れを伝えて、
クリスやCES本部は抜けて、確認申請書類押印の際で、
門外漢でも内政的介入者のコントロールを受けた、
施主の実母により1層分減らすようにと真剣なストップがかかっても、
4階分増えた規模と資金繰りの変化など施主側の都合から、
守秘義務から全ては記すことはできないのですが、残念な結果になった頃でした。
その次には、最近、東野高等学校の理事の方にもお伝えした通りですが、
「大きな全体の流れとしては間違いないが、詳細の名前の間違いは考えないとしても、
(70%程?)殆ど一方的な見方なのでは」と感じたのでした。
最後に参加した当方ですが、
計画時の資料を、移動する前の仕分け時、保管する時、事務所の耐震改修時など、
博士論文の為に訪問されたF氏に用意するためにと、何度か目を通し、
通観したところです。
また、部分的に、一時的に日本側建築家として担当されたり、
クリスを万博のことから知る通訳者であったり、
建築関係の書籍を多読されたクライアント側のプロジェクト推進者と、
当方よりもよく知っている方々のブログは、未だ読まず、
影響されない所感です。(これから読んでみます。)
更に、所長の秘書の様に、総務・経理を担当し、
長く身近で内部事情を良く知っている方でも、
実際の建築のこと、現場のことは門外で、
二国間でのそれぞれの状況は、インターネットのない時代からですから、
間で都合よくかなりコントロールされていたというのが感想でした。
それが、節々で、開校後、1989年、2012年、2015年と、
米国側や、或いは日本側でズレや歪みが大きくなり信頼関係が弱くなる状況で、
全体に影響が及ぼされた結果が現在で、
その一端が「Battle」の中身への方々からの疑問であると感じたことです。
その姿勢、やり方は、当プロジェクト以外でも変わらずに、
ずっと、米国でも同様なので、今では、真面目に問われるところです。
議論の際にも、対面で、自分の正しい論がいつの間にか、
相手の論と入れ換え正しい論を述べていた側に間違っていた論を持たせて攻める術や、
表裏で真逆のふるまいなど驚くほど長けていましたので、
同様に、例の写真撮影に事前に知らされず不本意に協力せざるを得なかったスタッフを初めとして、
真実を知っているものを枠外に出しながら、
構築した妄想と現実を長年入れ換えていく企みを続けている中で、
外国人だからという理由ではなく、予測不能な、
彼のプライド、世間体を傷つけたらどうなるかという恐れから、
関りを避けたいというのが、当方の本音でした。
それでも、真実を知っている日本側代表者は、
一期工事直後から彼に疎外されてきたにもかかわらず、
彼と暗に都合のよい取り引きをして、
人智を超えて都合の良い主観の通りにはならないので、
本部も全体的イメージを重んじていることを利用して、
日本側でも都合の良いイメージを定着させればと偏見眼鏡をつくり、
まずそれを掛けさせてから、当方に研究会でも紹介するように仕組んでいました。
が、偶々、新しい人、М氏が偏見サングラスを掛けることなく当方にコンタクトした際は、
サングラス作成者は激怒したと知り、還って状況を理解するに到りました。
2012年から2013年にかけてのことでしたが、「・・・だからさ〜」と鬱陶しく続いているのです。
クリスには、彼を「何とかしろ」とか、「気にするな」と言われておりましたが、
生徒を英国に送っている「彼はスイートだ」と変わり、
当方が独立事務所で仕事をしながらの子育て中に、実績の解体の試みや、
ねじ曲がったゴシップに拠る業務妨害をされ続けた経験から、
距離を置いて、関わらないようにと、他の業務に集中することにしました。
C.E.S本部には、クリスとゲーリーに師事して、
日本留学中には日本建築センター経由で
学園の大講堂や体育館などを担当された坂本功教授に師事して、
草庵茶室を研究しその伝統的大工道具まで大事に持っていた、
ランディが日本通でもあるので、
茶道の三千家の支え合いが理想ではと示唆して、
(利害対立者からコントロールされる懸念が残りましたが、)
クリスに伝えると賛同された記憶があります。
こうして、2015年には出版された本を見ても、
問われるまでは、その写真について気が付かなかった程でした。
逆にその問いから、妄想帝国が暴走しないようにとコントロールに努めるために、
クリスからの状況についての連絡と警告のように考えるようになり、
薄ら寒くなったのでした。
実際、現場は、単年度の助成金制度で、次年度初め、4月の開校に合わせて、
元請施工者の株式会社フジタ工業の所長の重責を考えると、
設計部の現場担当の理解も助けて、CESからの指示書を施工へとこなしながら、
基準を守ろうと努めながらも激務と時間との闘いと、
その厳しくも、求める質に合わせようと
アレグザンダー教授への尊敬に基づく深い理解と建設への情熱があってこそ、
学園側の腹をくくった熱意と祈りから、実現できたのです。
学園側上層部にはあったかもしれないですが、闘争どころではなく、
無事にクリスに確認された指示書を尊重しながら、
期日に間に合わせ、ゼネコンにはそぐわない工事は、
当初からのクリスの狙いであった直営工事での2期工事になったのでした。
困難を乗り越えて、成し遂げるまで頑張るために、
サッカーゲームのようにA対Bと対立構図を描いて、
勝つまで頑張るとするのは、解り易いでしょう。
A側B側、A派B 派の対立は一つの見方、つくられた構成でもあって、
実際は、当初からの協力者や、
日本側プロジェクト・チーム内で同僚の相対的な強さを感じた時に、
裏でも表でも排除の力を生じさせたと感じています。
バークレーは、盈進学園のおっとりした感じとは真逆で、
その者の個性であっても、言い訳とされたのですが、
その院内、学部内の競争からの影響と感じさせて、
その場では納得してしまうのでした。
そうして現地でプロジェクトに集中して、
指導教授からの指示の下、閉ざされた限定された環境、孤独から、
逆なでするような極端な応答ではなく、
常識的な穏やかな、しかし明確な応答でも、
全くの蓋なので、現実を受け入れられず、
妄想帝国を構築していく準備の一つが、
客人をモデルにした大講堂照明器具の原寸模型による実験の写真でした。
その内、彼独特の現実か妄想か曖昧にする長期にわたる巧みな企てが、
2国それぞれの状況で、軋轢を生じさせて、
思いやっても嘘を受け入れられない居心地の悪さや、
当書籍で取り上げられている、建築側での人間関係の、
A対Bと対立させている構図への紐づけに無理を感じて、
違和感となり、全てへの不信感へと膨らむのでした。
表裏共の権力闘争の部類でしょう。
また、相手に野心があると察知すると、
顔色や目つきが変わるのがサインですが、
ケースバイケースで、それを塞ぐ蓋を直ぐに用意しています。
AB対立の構図への紐づけも一例と感じています。
また、一つの解り易い例として取り上げてますが、
当方にかけた蓋について、
バークレーで、クリスが指導教授として、
彼女に社会的ダメージを与えたと激怒したのでした。
二国間でも、距離の離れた3カ所でも、
その長期的に続く傾向を知る人は多くなり、知る人を病んでいるとか、
超越した天使にするとか、阻害するのではなく、
真実を重んじている故、関わらずに避けていたところでも、
他でも多々あるためか、「どうしてか」と知りたがるのです。
勿論、当方は心理学者でも精神科医ではないのです。
☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡
逸れてしまいましたが、つまり、「戦い」ではあったが、
「AとBの間での軋轢」というよりは、全体性獲得の為に、
補完し合っていたというのが感じているところです。
どのケースでもこうした葛藤や軋轢はあります。
資金繰りや、開校スケジュールや、パターン・ランゲージを実現するために、
一気に一期工事と、コツコツと2期工事以降と、
補い合うような相互作用が無ければ全体性は得られないと考えられます。
そのシステムを構築し実現したのが、
問題提起したり、切迫した中で磨き合った関係者、実践者たちの功績でしょう。
CES側が示す、目指す方向、形や質を理解したところで、
基準は守りながら進み、
実際、スピーディに建ったところで、
原寸模型を掲げての実験が出来たのですから。
そのスピーディな施工に合わせて指示書を作成し(本部で確認を得て)、
進めることが出来たのですから。勿論、パターン・ランゲージに基づき、
センタリング・プロセスの中で、幾何学的性質に導かれながらです。
それを、総合的に指導していたのが、ハイヨからの連絡を受けて
指導していたクリスでした。
大講堂の梁の模様など、実際の詳細についてもです。
(当時、大型プロジェクトを施工者が獲得するときに、業界秩序の中でも、
それぞれの格の差、違いはあり、その営業側のレベルも様々と考えられ、
このプロジェクト特有の傾向でもないと感じていたところです。)
例えば、前にご紹介している
板橋木造3階建て共同住宅プロジェクトでは、
寧ろ、本で言われているB側に確り進めてもらわないと、
心のままに、エゴのままに進めるA側が強すぎては、
AとBの軋轢、AとAの軋轢で、
折角の環境整備でも、道路整備でも、
全体性を損なってしまう対立や沈滞や、
正誤の入れ換えの疑義が残る環境になってしまうのです。
都合の為に「あの人達は〜とか、あそこは〜」など偏見差別の方向ではなく、
良いルールが確りと守られてこその、単にシステム化されていない、
行き過ぎてメカニカルではない、
本当に生き生きとして内外共に平和でいられる人間の為の環境、
良い人間関係が築けるコミュニティとして育つのでしょう。
☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡
拠って、「Battle」というタイトルには問題を感じていません。
そうして、(既存)構造保存強化の見方、捉え方や、
「まちづくりの新しい理論」など功績は大きくとも、
書き残したかった思いとして、写真のように妄想を刷り込み、
既成事実化しているような70%を描いている上に、
クリスは最後の方の30%で全体性を伝えたかったと感じています。
そこでは、違和感なく、気持ちよく読めますので。
学園側では、古くからの関係者は、雇用の記録や給料支払いの会計簿、
日本環境構造センターと成った後も、ずっと様子を見守っており、
正門に事務所を移した後も、直接、事務室長も事務所に様子を見に来られて、
安心して仕事が出来たので、
又、日本事務所を辞職して、バークレー大学院へ入学する際も、
理解され支持されて、心より感謝しているのです。
その間も、その後も、
察知できるほどの妄想帝国側から、
何度も疑わしい毒を嗅がわせられても然りです。
それにより長らく目が曇ってしまった人も少なくなかったのですが、
還って、内外、身近でも妄想帝国に気づき理解されることになりました。
クリスから、1989年夏にバークレーで日本側代表になるようにと言われた時に、
「(上記のつくられた状況もあり)日本は男女差別が強く、弱い代表になってしまう。
また、修士号取得後、(両方から孫をと迫られており)母親になる予定なので」と、
断りました。
それでも、繰り返されて、二名を推薦したのですが、結局は夫々の事情もあり、
S氏は、全てに通じていて信頼できても故郷で私的な責任を全うされていて、
クリス曰くカジュアル過ぎてルーズ(国家資格なく、雇用者に違法を導く嫌いがあり、
借金体質になる)と、クリスが直に良く知っているN氏でも、決定的であったのは、
他社のCEOの下の人では代表は不可とのことでした。
一人でも守ろうと
努められた総務担当者から日本環境構造センターを閉じたと聞いた後も、
二名の様子を伺っていましたが、
最終的に独立して事務所を開設し、生徒活動会館完工後、
日本環境構造センターの保管資料を移して当事務所に、保管することになりました。
CES本部経由で、大講堂の最上階に置かれていた時のことから、
「散逸させることになるから絶対に外部に出すな」と言う
クリスとも連絡を取りながら、
学園側の理事長の勧め、促しもありました。
故に、社会的物理的介入を懸念して、公に口外しないことにしました。
今では学校運営側は入れ替わり忘れられても、
当時の卒業生達が記憶していたのでした。
様々な困難を乗り越えて、再来年には開校40周年を迎える東野高等学校です。
下記より、そのホームページをご覧頂けますので、どうぞ〜☆
https//eishin.ac
また、当方の2011年8月51号のメルマガ「時を超えた質」でもご紹介しておりますので、どうぞ〜☆彡
長くなってしまいましたが、此処まで有難うございました。お疲れさまでした。